本日の蓮は、こんな感じ。それぞれ3枚ずつ葉が揃ったようです。
問題点は写真でもお分かりのとおり、水が緑色になり、泡がわき、急速に「沼感」が出ていることです(^-^; ちょっとずつ、水は入れ替えているんですけどね。
本題の『園芸家の十二ヶ月』ですが、いとうせいこうの『ボタニカル・ライフー植物生活』の中で、いとうせいこうのバイブル的存在として触れられています。それで興味を持ち、読みたい本リストに入れていたのですが、なかなか読む機会がありませんでした。そうしたらたまたま新訳が出ているのを知り、読むことにしたわけです。
いやはや、とっても面白かったです。題名通り、園芸というか庭仕事にとりつかれた人の1年の暮らしぶりをまとめたエッセイ集なのですが、何かにとりつかれるというか、オタクになると、人はすべてちょっと変になるということが、よく分かります。
春の兆しの1つは「庭に飛び出すおとなりさん」(自分が、はき古したズボンをはいて庭に飛び出すこともある)だとか、園芸家がエデンの園に行っても、知恵の木の実のことなど忘れて庭仕事をするだろうとか、園芸家は作業に夢中になりすぎ、意外と庭を眺めるのを忘れているとか……。
カレル・チャペックのお兄さんのヨゼフ・チャペックのとぼけた挿絵と相まって、楽しく読み進めることができます(表紙の装幀は和田誠)。
一方で、書かれた時代背景を考えると、時にヒヤッとした思いにさせられる部分もあります。カレル・チャペックは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦間期に活躍し、この本は1929年に書かれましたが、「六月」の部分で、独裁者になったらという夢想が書かれています。
まず「ラズベリー令」を布告します。この「ラズベリー令」は、園芸家は垣根近くにラズベリーを植えてはならないというもので、これに違反した者は罰として右腕を切り落とす、という恐ろしい内容にするつもりです。(中略)ラズベリーってやつは地面の下を這って何メートルでも伸びていくことができるのです。垣根や壁はもちろん、塹壕や鉄条網もものともしません。
ラズベリー令の罰はもちろん恐ろしいですが、その背後にはよその家のラズベリーに苦しめられる園芸家の叫びがあるわけです。
現実には、もっととんでもない独裁者が登場しました。カレルが亡くなる年からその翌年にかけて、彼の故郷チェコがナチスに蹂躙されていきます。カレルは生前すでにゲシュタポからにらまれており、お兄さんのヨゼフは強制収容所で亡くなりました。チャペック兄弟が丹精込めて作り上げた庭は、どうなってしまったのでしょう。
もしかしたら「十月」で描かれる葉が落ちた木の描写は、彼の死後のチェコを暗示しているのかもしれません。
ほとんど裸になった木で最後の一枚の葉が風にふるえているさまは、兵士がいたるところで倒れている戦場で、 戦死した一人の兵士の手にしっかり握られて揺れている最後の軍旗のようです。わたしたちは倒れたとしても、けっして降伏することはありません。わたしたちの軍旗は、まだ風に揺れています。
カレル・チャペックは、どこまでも未来に希望を持っていたようです。「十一月」では、地上部は枯れたように見える植物も地下では根やシュート(枝)を伸ばしていることを指摘し、こう書いています。
未来はわたしたちの前にあるのではなくて、シュートの形をしてもうここに存在しているのです。つまり、わたしたちといっしょにいるんですよ。いまいっしょにいないものが、これから先現れるわけもないのです。シュートが目に見えないのはそれが土の下にいるからです。未来のことがわからないのは、未来がもうわたしたちといっしょにいるからなのですよ。
また「十二月」の終わりの方でも、こう書いています。
わたしたち園芸家はなにか未来に向かって生きているのです。バラの花が咲けば、来年はもっときれいで立派な花を咲かせてやるぞと思いますよね。(中略)本当のもの、どれにもまさるものは、わたしたちの前方、未来にあるのです。
カレル・チャペックの他の作品も、ぜひ読もうと思います。
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