魅惑のマンホール、可愛い単管バリケード

日本各地・世界各地のマンホール蓋を中心に、単管バリケードも紹介します。街路樹保護盤やピクトグラム、救命ブイなど、様々なカテゴリーの記事をアップします。

『文学部唯野教授』(筒井康隆)~文芸批評の基礎が分かる~

野田耽二というペンネームでこっそり小説を書いている唯野教授の周囲で起こるドタバタの合間に、唯野教授の文芸批評論の講義が挟まるという構図の本です。印象批評、新批評、ロシア・フォルマリズム現象学、解釈学、受容理論記号論構造主義ポスト構造主義の概要が分かります。
 

 
この小説は、発売当時は大変もてはやされました。一種のブームと言っても良いかもしれない。下で紹介しているのは文庫版ですが、私が今回読んだのは、家で眠っていた当時のハードカバー版です。ブームのただなかにありながら、当時通っていた予備校の先生の一人が、「あれをもてはやしたら、筒井康隆の思う壺だ。あれは『ただの(単なる)教授』という意味をかけているのであり、大学も大学教授もたいしたことがない、という筒井康隆流の皮肉である」という内容のことを言っていたのを覚えています。それが正しいかどうかはさておき、この小説の発想や構図には脱帽せざるを得ません。
 

 

でも内容というか、表現の一部については別です。私は筒井康隆という作家が好きではありません。著作に出てくる表現について、彼はたびたび様々なところから「差別を煽る」として抗議を受けてきました。そのたびに彼は「言葉狩りだ」と反発したり、断筆宣言をしたりしてきました。逆切れともいえるかもしれない。『文学部唯野教授』においても、特定の病気・特定の政党への偏見に満ちた表現が出てきます。
 

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別に、何でもかんでも当たり障りのない表現をするのがいいとは思いませんが、「あなたの書いた文章で傷ついた」という人がいたら、傷つける意図はないと開き直るのではなく、率直に謝ればいいのではないかと単純に思ってしまいます。
 

 

 
とはいえ、唯野教授の講義の部分では、得るものが少なからずありました。現代の小説の問題は、批評家だけではなく、一般の読者も文芸批評の知識を少なからず身に着け、小説の細かい表現やその意味に過剰にこだわり、小説を小説のまま楽しまないことにあるのではないかと思ってしまいました。……あれ? ということは、私も筒井康隆の差別表現にはこだわらず、そのまま受け入れればいいということになってしまいますね。うーん、でもそれは違うと思うのだけど。
 
考えが袋小路にはまったので、ここでやめておきます。